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NHKドラマ「武蔵」事件:東京地裁平15(ワ)25535
平成16年12月24日判(棄)/知財高裁平17(ネ)10023
平成17年6月14日二部判(棄)

〔キーワード〕 
アイディア、具体的表現形式、創作性、模倣、著作権の保護範囲

〔事  実〕
 本件は、昭和29年(1954)に東宝株式会社が黒沢明監督の下で製作した劇映画「七人の侍」について、同監督の相続人である黒沢久雄と黒沢 の両名が、同映画と脚本について有していた著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)に基き、日本放送協会が平成15年1月5日から放送を開始したNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の第1回放送分が、前記著作権等を侵害したと主張し、同ドラマの製作者である日本放送協会と脚本家Cに対し、番組の複製・上映等の差止め等及び損害賠償1億5400万円の支払等を請求した事案である。
 原審の東京地裁は、前記ドラマの第1回放映分は、原告らの著作権及び著作者人格権を侵害するものではないとして、原告らの請求をいずれも棄却したので、本件控訴を提起した。
 
〔東京地裁の判断〕
1.被告脚本による原告脚本の著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権))侵害の有無(争点1)
(1) 「翻案」(著27条)とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして,著作権法は,思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照),既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若しくはアイデア等において既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案には当たらないと解するのが相当である(最高裁平成11年(受)第922号同13年6月28日一小判決・民集55巻4号837頁参照)。
 したがって,被告脚本が原告脚本を翻案したものと評価されるためには,被告Cが,原告脚本に依拠して被告脚本を作成し,かつ,被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を直接感得することができることが前提となるが,その際,具体的表現を離れた単なる思想,感情若しくはアイデア等において被告脚本が原告脚本と同一性を有するにすぎない場合には,翻案に該当しないというべきである。
 そこで,まず,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から直接感得することができるか否かについて判断する。
 本件において,原告らは,次の@ないしCの各類似点において原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から直接感得することができると主張している。また,原告らは,@ないしCの各類似点の主張に加えて,@ないしCの類似点が組み合わされることによって,原告脚本全体が想起されるようになり,被告脚本が原告脚本の模倣作品と評価されるとも主張している。
@ 村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー
A 別紙対比目録1記載の9箇所(6及び11を除いたもの)の類似
B 西田敏行の演じた内山半兵衛と志村喬の演じた島田勘兵衛,寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似
C 戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現
 そこで,原告らの上記主張に即して,まず,上記@ないしCの各類似点において,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から直接感得することができるか否かについて,検討することとする。
(2) 前記「判断の前提となる事実」(前記第2,1(3))記載の事実及び甲9,乙1によって認められる原告脚本と被告脚本の各内容に基づき,原告脚本と被告脚本とを対比すると,次のとおりである。 
ア 基本的なストーリー及びテーマの対比
(ア) 原告脚本は,上映時間約3時間27分の劇場用長編映画(原告映画)の脚本である。その基本的なストーリーは,野武士の襲撃に悩まされる農民が,腕の立つ侍を雇って村を警護してもらうことを決め,智勇を備えた歴戦の古豪島田勘兵衛と巡り会って,その協力を得ながら7人の個性ある侍を見つけ,7人の侍たちは村人との間に信頼関係を構築しながら一致団結して野武士との戦いに臨み,犠牲者を出しながらも最後は雨中の戦いの中で野武士を撃退し,村人は平和な農耕生活を取り戻すというものである。
 一方,被告脚本は,1年間にわたって放映された「大河ドラマ」の第1話(放映時間約55分)の脚本である。その基本的なストーリーは,関ヶ原の合戦後に敗残兵として戦場をさまよう武蔵と又八の場面から始まり,主要登場人物であるお通,沢庵,佐々木小次郎,柳生宗矩らの顔見世的な人物紹介シーンを織り交ぜつつ,武蔵らが,野盗の襲撃に悩まされる母娘に腕を見込まれて警護に雇われ,雇われ侍のリーダー格の内山半兵衛に「戦うことは生き抜くこと」と教えられて強い感銘を受けるも,半兵衛は野盗との戦いのなかで討ち死にし,最後は雨中の戦いの中で,武蔵が野盗の頭領の辻風典馬を倒し,「俺は強い」と絶叫するというものである。
 なお,被告脚本は,被告原作小説では,文庫版第1巻の「鈴」の章から「おとし櫛」の章「三」までに相当する。この部分の基本的なストーリーは,関ヶ原の合戦後に敗残兵として戦場をさまよう武蔵と又八が,山中で娘と出逢い,娘(朱実)とその母(お甲)の世話を受けることになったところ,武蔵が朱実から,朱実の父が野武士の頭領の辻風典馬に殺害され,お甲らが典馬に搾取されていることを聞かされ,お甲らのもとにやって来た典馬を武蔵が倒すというものである(乙2の1)。
(イ) ところで,原告脚本の製作過程について,甲27,28,乙19ないし21,26ないし30及び弁論の全趣旨によれば,原告脚本の共同執筆者である橋本忍が集めた古い記録の中に,ある村が野武士の襲撃を防ぐために侍を雇って,その村だけ襲撃から助かったというわずかな記事があり,これを参考に物語の大筋を決めたこと,享保元年出版の天道流の達人日高繁高の記した「本朝武芸小伝」から,勘兵衛が僧侶に扮装した上で握り飯を投げて盗人の注意をそらし,人質の赤子を救い出すシーン(上泉伊勢守のエピソードから),戸陰から不意打ちをして侍の腕試しをするシーン(塚原卜伝のエピソードから),久蔵の決闘シーン(柳生十兵衛のエピソードから)を取り出して構成したほか,「本朝武芸小伝」を種本とする直木三十五の「日本剣豪列伝」も参考にして原告脚本が執筆されたことが認められる。また,乙10ないし13,31の1によれば,被告原作小説は,新聞連載の後に昭和11年から昭和14年にかけて単行本として出版されたものであるところ,原告脚本及び原告映画が,被告原作小説における「土匪来」の章及び「征夷」の章(文庫版第6巻)のストーリー(武蔵が下総法典ヶ原で孤児伊織と巡り会い,荒野の開拓に従事していたところ,野武士の一団に襲われた近隣の村を助けに行き,野武士の一団を分断させて村人が集団でこれをせん滅する策を授け,野武士を撃退する話)や「四賢一燈」の章「一」ないし「五」(文庫版第7巻)の物語(武蔵の技量をはかろうと,物陰に潜んで刀に手をかけていた柳生但馬守の気配を察して,武蔵がこれを回避した話)の影響を受けているとの指摘があることが認められる。
(ウ) そこで,検討するに,原告脚本は,野武士の襲来に悩まされる村人が腕の立つ侍を雇ってこれを撃退するというストーリーであって,村人や侍たちの視点を軸に物語が展開されている。一方,被告脚本は,連続時代劇の第1話として,被告原作小説の関ヶ原から辻風一党との闘争に至る部分を脚本化したもので,主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面を織り交ぜつつ,辻風一党に狙われた母娘に雇われた主人公の武蔵を中心としてストーリーを展開し,ドラマ全体のテーマである「生き抜く」というメッセージを発するとともに,武蔵が己の強さを自覚するというものである。
 このように,原告脚本と被告脚本は,野盗に狙われた弱者に侍が雇われて,これを撃退するという大筋において,一致が認められる。しかし,ストーリーの展開を検討すると,原告脚本においては,ストーリーの中心となる主人公が特定の人物に限られておらず,農民たち,勘兵衛,菊千代など様々な登場人物の視点がからみあってストーリーが展開されるとともに,人物の性格や場面について細かな設定がされていること,武芸にまつわる江戸期の伝承を取り込んでストーリーの細部が構築されている点に特徴がある。一方,被告脚本は,関ヶ原の合戦で活躍できなかった武蔵が,戦の後に知り合った母娘の敵として登場する野盗の頭領の辻風典馬を倒すという基本的なストーリーであり,その点は被告原作小説と一致している。
 そして,被告脚本のうち,主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面(この部分が,原告脚本と何ら関係がなく,著作権侵害・著作者人格権侵害の問題を生じないことは明らかである。)を除いた部分を原告脚本と対比すると,被告原作小説の物語を基本として主人公の武蔵を軸にその視点からストーリーが展開されている点,野盗の急襲によって守備側の中心である半兵衛と追松があえなく討ち死にしてしまい,武蔵がほとんど独力で野盗の頭領である辻風典馬を倒す点で,原告脚本が農民や侍たち等の複数の視点からストーリーを構築し,侍たちが農民と協力して野武士を撃退するというストーリー展開をしているのと大きく相違する。
 さらに,そのテーマを検討すると,原告脚本においては,侍を雇った農民たちが落ち武者狩りによって得た武具を隠し持っていたこと,野武士を撃退した農民たちが田植えに励むのを見た勘兵衛が「勝ったのは,あの百姓たちだ。」とつぶやく場面などに表れているように,一見非力な農民のしたたかさ,力強さがうたい上げられている。一方,被告脚本は,青年武蔵が己の強さを自覚し,生き抜く誓いをたてるという1人の人間の成長の物語というべきものである。
 上記によれば,原告脚本と被告脚本は,ストーリー展開やそのテーマにおいて,相違するということができる。したがって,原告脚本と被告脚本との間に,村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリー上の共通点が存在するにしても,そのことを理由として,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
イ ストーリー全体のなかでの当該エピソード及び場面の対比
 前記アで述べたとおり,原告脚本と被告脚本とは,ストーリー展開やそのテーマにおいて相違が認められるが,次に,原告らが挙げる別紙対比目録1記載の9箇所の類似点(6及び11を除いたもの)を具体的に検討する。
(ア) 怪しい男が実は女であったという場面について(別紙対比目録1記載の類似点1)
 原告脚本には,村の男たちは全員戦闘訓練に参加しているはずであるのに,これに参加していない男を見つけた勝四郎が,その者を追いかけて取り押さえたところ,胸に手が触れて女であることに気づくという場面がある。一方,被告脚本には,関ヶ原の合戦後,戦場付近で遭遇した怪しい者を武蔵が追いかけて取り押さえたところ,その者の胸に手が触れて女であることに気づくという場面がある。
 しかし,原告脚本と被告脚本では,当該場面における具体的な描写が異なっている上,原告脚本においては,雇われた侍による狼藉をおそれた父親により男装させられている志乃に勝四郎が出会い,その後,2人が人目を忍んで逢瀬を重ねることとなるきっかけとして当該場面が描かれており,ストーリー全体を通じても重要な場面であるのに対して,被告脚本においては,単に武蔵がお甲母娘に出会う伏線として描かれているにすぎず,ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけが大きく異なる。
 上記のとおり,原告脚本と被告脚本とを対比すると,怪しい者を取り押さえたところ,胸に手が触れて女であることに気づくという点で共通するが,両者の間の共通点としてとらえられる上記の点はアイデアにとどまるものであり,また,男性の身なりに扮装していた女性の胸に手を触れることによって,女性であることに気づくという場面は,他の作品にも見られるものであり,このような設定自体をもって原告脚本独自のものということも困難である。
 上記によれば,別紙対比目録1記載の類似点1の点において,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
(イ) 侍の腕試し場面について(別紙対比目録1記載の類似点2ないし5)
a 原告脚本には,勝四郎が袋竹刀をとって入口に身を隠し,戸口を通りかかる侍に打ちかかってその技量を試すという場面がある。一方,被告脚本には,お甲が戸の陰で棍棒を構え,小屋の中に入ってくる又八に不意に打ちかかるという場面がある(別紙対比目録1記載の類似点2及び4)。
 原告脚本と被告脚本とを対比すると,侍の技量を確かめるために,戸口で不意に打ちかかるという点で共通する。
b 原告脚本には,人通りの多い往来で,村人が,強そうな侍を物色する場面がある。一方,被告脚本には,朱実が道行く侍を物色する場面がある(別紙対比目録1記載の類似点3)。
 原告脚本と被告脚本とを対比すると,往来で強そうな侍を物色するという点で共通する。
c 原告脚本には,戸口を通りかかる侍に打ちかかろうとしている勝四郎に対し,浪人が,中に入ることなく,「誰方じゃ,冗談が過ぎますぞ。」と声をかける場面がある。一方,被告脚本には,戸の陰に隠れた追松が真剣を抜いて構えていたところ,半兵衛が足を止め,(冷静に)「真剣で勝負をするというのは,何かわけがあるのかな。」と声をかける場面がある(別紙対比目録1記載の類似点5)。
 原告脚本と被告脚本とを対比すると,腕前を試された侍が,あらかじめ攻撃の気配を察し,言葉でこれを制するという点で共通する。
 前記aないしcの各点は,いずれも,侍の腕試しシーンに関するものであるところ,「目をつけた侍を戸口におびき寄せ,戸陰に隠れた者が不意に打ちかかってその者の技量を確かめようとしたところ,武芸に秀でた侍は隠れている者の気配をあらかじめ察し,言葉で攻撃を制した。」という点で共通する。
 しかしながら,乙3,4によれば,くぐり戸や木戸口を通る必要がある場合の武士の心得として,「刀かつぎの法」(夜間など物騒な気配が察知される場合の戸入りの形),「刀かざしの法」(昼間でも,くぐり戸など狭い戸口から入るときに,侍が必ず行う作法)などの防御の技法が存していたことが認められる。また,乙2の7,5,19及び弁論の全趣旨によれば,様々な武芸者の伝説伝承を集めた「本朝武芸小伝」(1716年)の中の塚原卜伝に関するエピソード中には,「卜伝が息子3人の中から後継者を選ぶため,部屋に入る際に頭上から木の枕が落ちる仕掛けをしたところ,長男は事前に木枕に気づき,これを除く。二男は落ちる枕を避けた後,部屋に入る。三男は落ちる枕を空中で斬る。その結果,心機に優れた長男が後継者となる。」というものがあること,明治末期から大正時代にかけて少年に広く読まれた「立川文庫」においても前記エピソードが取り上げられていること,被告原作小説においても,「四賢一燈」の章「一」ないし「五」(文庫版第7巻)に,幕府の軍学者・北条安房守の屋敷に招かれた武蔵が,廊下を進む際に,武蔵の腕前がどの程度かを見届ける目的で刀の鯉口を切った状態(抜刀直前の態勢)で物陰に潜んでいる柳生宗矩の気配を心機で察し,庭に下りて回避するというエピソードがあることが認められる。
 このように,戸陰から打ちかかることによって侍の技量を確かめようとしたところ,武芸に秀でた侍は攻撃の気配をあらかじめ察し,相手に攻撃の機会を与えないという場面設定自体は,江戸期の武芸者の逸話に少なからず見られるものであり,時代劇において達人の技量をはかる手段としてしばしば用いられる手法ということができる。そこで,上記のような場面設定において,試される侍が具体的にいかなる対応をしたのかという点を見るに,原告脚本においては,腕を試された1人目の侍(氏名不詳)は鉄扇で袋竹刀を払いのけ,2人目の侍(五郎兵衛)は気配を察して「誰方じゃ,冗談が過ぎますぞ」と言って攻撃を事前に制するのに対し,被告脚本においては,1人目の侍(武蔵)は何とか攻撃を通り抜け,2人目の侍(又八)は戸陰に人が隠れていることを知らされていたので攻撃を防御することができ,3人目の侍(追松)は気配に気づいて逆に攻撃をしかけ,4人目の侍(半兵衛)は気配に気づいてその真意を尋ねるという内容になっている。このように,原告脚本と被告脚本とでは,技量を試された侍の反応やその発する言葉は相違している。
 上記によれば,別紙対比目録1記載の類似点2ないし5の点において,被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
(ウ) 野盗との戦闘場面について(別紙対比目録1記載の類似点7ないし10)
a 原告脚本には,村の周囲に柵を設置する場面がある。一方,被告脚本には,道に柵を作ることを提案する武蔵に対し,半兵衛が柵を作れば,いつもと違うと敵に思われるので,普段と変わらないと思わせておくのが一番だと答えて,柵を作ることに反対する場面がある(別紙対比目録1記載の類似点7)。
b 原告脚本には,騎馬武者を含めた野武士が獣めいた喚声を上げて村におし寄せて来る場面がある。一方,被告脚本には,辻風典馬を先頭に十数名の野盗が騎馬で疾走してくる場面がある(別紙対比目録1記載の類似点8)。
 原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,野武士が騎馬で疾走して攻めてくるという点で共通する。
c 原告脚本には,馬柵の開閉によって野武士を分断する策を講じて野武士の一群を混乱させて乱戦に持ち込み,野武士に退却を余儀なくさせる場面がある。一方,被告脚本には,馬と人が入り乱れた乱戦となり,野盗に退却を余儀なくさせる場面がある(別紙対比目録1記載の類似点9)。
 原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,乱戦の中で攻めてきた野武士が退却するという点では共通する。
d 原告脚本には,降りしきる雨の中を,13騎が一団となった真っ黒い固まりが村に攻め寄せ,乱戦となる場面がある。一方,被告脚本には,雨の中の死闘が続き,武蔵らが足を滑らせながらも戦い続け,最後には武蔵が辻風典馬と向かい合って斬り合い,武蔵が勝利するという場面がある(別紙対比目録1記載の類似点10)。
 原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,最後の戦いが雨中の乱戦であるという点で共通する。
 前記aないしdの各点は,いずれも,野武士との抗争場面に関するものであるところ,「雇われた侍によって一度は野武士が撃退され,野武士と侍との間の最後の決戦は雨の中で行われる。」という点で共通する。
 しかしながら,前記共通点であるところの,攻撃側が騎馬で攻め込んでくること,攻撃を受けていた側に加勢が入ることによって,攻撃側が退却を余儀なくされることや雨中において戦いが行われること自体は,場面設定としてアイデアにとどまるものといわざるを得ない。
 他方,ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけ及び当該場面の具体的な描写についていえば,原告脚本においては,雇われた侍と村人たちが一致協力して野武士の集団と死闘を繰り広げる様子を描写することで侍と村人との一体感,自衛に立ち上がった農民の力強さを見る者に印象づけるという観点から設定された場面であり,具体的な戦闘場面としては,村を取り囲む地形や各侍の個性・技量をも具体的に考慮して野武士に対する備えを準備し,野武士を分断して多数でせん滅する作戦を基本とした戦いが描かれている。これに対して,被告脚本においては,戦闘場面の描写を通じて,半兵衛の存在を強調してその討ち死にを見る者に印象づけるとともに,武蔵が「生き抜く」ことの大切さを知り,同時に自らの強さを自覚するという観点から設定された場面であり,具体的な戦闘場面としては,武蔵らは柵などの備えを全く設けず,野盗の一団を分断させるような策も講じないまま野盗と戦っており,野盗側としてもいったん撃退された後に改めて奇襲を行い,武芸者の半兵衛と追松を討ち取るなど一定の成果を上げている。
 上記によれば,別紙対比目録1記載の類似点7ないし10の点において,被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
ウ 人物設定について
 原告らは,原告脚本における島田勘兵衛と被告脚本における内山半兵衛とが類似し,また,原告脚本における久蔵と被告脚本における追松とが類似すると主張するので,検討する。
(ア) 島田勘兵衛(原告脚本)と内山半兵衛(被告脚本)
 両者は,侍たちのリーダー格であること,技量が優れていながら,不遇な境遇を送ってきたという点において共通する。しかしながら,内山半兵衛(被告脚本)は,主人公の武蔵に「生き抜く」という大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」全体に通じる主題を伝えた後にあえなく討ち死にしており,仲間を失いつつも最後まで生き残る島田勘兵衛(原告脚本)とは相違している。なお,被告らは,内山半兵衛(被告脚本)は,大坂夏の陣で豊臣方に参加して討ち死にした後藤又兵衛を参考にしていると主張するところ,乙15及び16によれば,後藤又兵衛には,戦いに敗れ,一同が髪を剃って蟄居した際に,「負けるも勝つもいくさのならいである。」としてこれに従わなかったという逸話があることが認められる。そして,この逸話は,内山半兵衛が浪人となったいきさつを武蔵に語る場面において「いくさに負けたら,一同髪を切って出家しようという。いやだと言ったら,それなら腹を切れという。いくさは,そのときどきものだ。勝つときもあれば,負けるときもある。‥‥‥本気で戦わない者ほど,後になって形だけのことを言う。お前らに言われて,腹を切るなぞまっぴらごめんだ。そう言ってやめてきたのよ」と述べていること(被告脚本におけるカット44)の参考になったと考えられ,内山半兵衛(被告脚本)と後藤又兵衛との関連性を指摘することができる。
 上記によれば,各脚本における人物設定の点において,内山半兵衛(被告脚本)が島田勘兵衛(原告脚本)に類似しているとは認められない。
(イ) 久蔵(原告脚本)と追松(被告脚本)
 両者は,剣術に優れ,己の技を磨き上げることに生涯を捧げるかのような生き方をしている点において共通する。しかしながら,被告脚本において,追松は,戦いの中に身を投じている内に心がすさみきった者であると説明され,主人公武蔵に対する反面教師というべき役割を担っているのに対し,原告脚本における久蔵は,単身で敵陣に乗り込んで鉄砲を奪い取って若侍の勝四郎の憧憬の対象となったり,勝四郎と村娘・志乃の間の密会を見て見ぬふりをするなど,人間味のある性格の人物として描かれており,追松(被告脚本)と相違する。
 上記によれば,各脚本における人物設定の点において,追松(被告脚本)が久蔵(原告脚本)に類似しているとは認められない。
エ 戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現について
 原告脚本の最後の戦いの場面は,雨中での戦いとして,極めて著名な場面である。そして,被告脚本においても,最後の戦いは雨中で行われるほか,冒頭の関ヶ原合戦後の場面において,霧ないし雨が使用されている。しかし,被告脚本において霧ないし雨の場面を設定したことから,直ちに原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得させるものということはできない。ちなみに,関ヶ原合戦後の場面において霧がたちこめているのは,関ヶ原の合戦の史実とも符合し,原告映画と同時期に製作された稲垣浩監督「宮本武蔵」(乙32)においても関ヶ原の合戦における霧の場面がある。
オ 類似する諸要素の有機的結合について
 原告らは,原告脚本の本質的特徴は,@村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー,A別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面,B登場人物の人物設定,C戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現という各要素を有機的に結合して完成した全体にあるところ,被告脚本の読者は,これを被告脚本から直接感得することができるとして,著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害を主張する。
 たしかに,ある著作物(原告著作物)におけるいくつかの点が他の著作物(被告著作物)においても共通して見受けられる場合,その各共通点それ自体はアイデアにとどまる場合であっても,これらのアイデアの組み合わせがストーリー展開の上で重要な役割を担っており,これらのアイデアの組み合わせが共通することにより,被告著作物を見る者が原告著作物の表現上の本質的な特徴を感得するようなときには,被告著作物が全体として原告著作物の表現上の本質的な特徴を感得させるものとして原告著作物の翻案と認められることもあり得るというべきである。
 そこで本件についてみるに,たしかに原告脚本と被告脚本は,村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリーに共通点が見られ,また,別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面において,アイデアにとどまるものではあるが,共通点が見られ,登場人物の設定の点でも,内山半兵衛(被告脚本)と島田勘兵衛(原告脚本)の間,追松(被告脚本)と久蔵(原告脚本)の間に一定の共通点が見られる。しかしながら,既に前記イ,ウにおいて検討したとおり,別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面については,原告脚本と被告脚本との間でストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上,具体的な描写も異なるものであり,また,人物設定の点もストーリーのなかでの当該人物の役割やその性格づけに着目すれば類似するものとは認められない。そして,原告脚本においては,原告らの挙げる上記の各場面のほかに多くのエピソードが描かれており,島田勘兵衛及び久蔵のほかに多くの個性的な人物が登場するものであり,そこでは,7人の侍について各人の個性が見事なまでに描き切られており,作品全体を通じて,侍たちの義侠心と村人に対する暖かい視線,野武士との闘いを通じて形成される侍たち相互そして侍たちと村人との間の心の触れあいと連帯感,一見非力な農民のしたたかさ・力強さ等のテーマが,人間に対する深い洞察力に裏打ちされた豊かな表現力をもって,見る者に強烈に訴えかけられているものである。これに対して,被告脚本においては,主人公武蔵が歴戦の武芸者から薫陶を受けるとともに自己の強さを自覚する契機として野盗との戦闘場面が設定されているにすぎない。原告脚本と被告脚本の間に上記のようなアイデア・設定の共通点が存在するとはいっても,原告映画をして映画史に残る金字塔たらしめた,上記のような原告脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については,被告脚本からはうかがえない。
 上記によれば,原告らが原告脚本と被告脚本との類似点として挙げる各点を総合的に考慮して,原告脚本と被告脚本を全体的に比較しても,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から感得することはできないから,被告脚本をもって原告脚本の翻案ということはできない。
カ 結論
 上記によれば,原告脚本と被告脚本とを対比すると,前記のとおりいくつかの場面において一定の共通点が認められるが,共通する部分はアイデアの段階にとどまるものであり,登場人物の人物設定についても類似するものとは認められない。また,原告脚本と被告脚本との間には,ストーリー全体の展開やテーマにおいて相違があり,結局,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から感得することはできないから,被告脚本による原告脚本についての著作権(翻案権)及び亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない。
2.被告番組による原告脚本の著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害の有無(争点2)
(1) 被告番組は,被告脚本に依拠してこれを翻案して製作された,被告脚本の二次的著作物であって,被告脚本とは,その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。
 本件において,原告らは,被告番組を原告脚本と対比すると,被告脚本に基づいて製作された部分(別紙対比目録2記載の被告番組の内容のうち,6及び11を除く部分)に加えて,「朱実が腰につけていた鈴を半兵衛が投げるシーン」(別紙対比目録2の被告番組の内容6)及び「武蔵が地面に突き立ててあった刀を抜くシーン」(別紙対比目録2の被告番組の内容11。別紙対比目録2の被告番組の内容のうち,6及び11のシーンは被告脚本にはない。)において原告脚本(別紙対比目録1記載の原告脚本の内容)と類似し,被告番組は原告脚本の著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害すると,主張している。
(2) そこで検討するに,まず,被告番組のうち被告脚本に基づいて製作された部分(別紙対比目録2記載の被告番組の内容のうち,6及び11を除く部分)について,原告らが原告脚本についての著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害の理由として述べるところは,被告脚本による原告脚本の著作権及び著作者人格権侵害の理由として述べるところ(別紙対比目録1の類似点のうち,6及び11を除く部分)と同様であり,次の@ないしCのとおりである。また,原告らは,@ないしCの各類似点の主張に加えて,@,B及びCの類似点並びにAの類似点に別紙対比目録1,2における6及び11のシーンの類似を併せて組み合わせることによって,原告脚本全体が想起されるようになり,被告番組が原告脚本の模倣作品と評価されるとも主張している。
@ 村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー
A 別紙対比目録2記載の被告番組の内容の9箇所(6及び11を除いたもの)と別紙対比目録1記載の被告脚本の内容の9箇所(6及び11を除いたもの)の類似
B 西田敏行の演じた内山半兵衛と志村喬の演じた島田勘兵衛,寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似。
C 戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現
 上記のとおり,被告番組は被告脚本の二次的著作物であって,脚本とこれにより製作された番組という関係上,被告番組は被告脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであるところ,前記「判断の前提となる事実」(前記第2,1(3))記載の事実及び甲9,24により認められる被告番組及び原告脚本の内容に照らせば,原告らが類似点として挙げる上記の各点について原告脚本と対比する上では,被告番組においては,被告脚本の特徴に付け加えるべき点はない。
 したがって,前記1(争点1についての判断)において説示したのと同様の理由により,上記@ないしCについては,これから原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められない。
(3) 次に,原告らは,被告番組のうち別紙対比目録2記載の6及び11の箇所については,被告NHKが,被告脚本に基づかずに原告脚本から直接翻案したと主張しているので,これらの点について検討する。
ア 注意を引きつけるために物を投げる場面について(別紙対比目録1及び2記載の6)
 原告脚本には,侍が子どもを人質にとって屋内に立てこもる盗人の注意をひくために握り飯を投げつけ,握り飯に気を取られた盗人の隙をついて斬りつける場面がある。一方,被告番組には,侍の腕試し場面において,半兵衛と並んで立っている朱実が腰につけている鈴をひきちぎって,追松に投げつけ,追松が鈴を刀で払う隙をついて,半兵衛が追松をねじふせるという場面がある。
 原告脚本と被告番組を対比すると,相手方の注意をそらすために物を投げるという点で共通する。しかし,このような場面設定自体は,「本朝武芸小伝」における伝承にもあらわれているもので,時代劇においてしばしば用いられるものである。そして,原告脚本では拘束者の目を人質から他にそらさせる方法として用いられているのに対し,被告番組では,腕試しで対峙し,攻撃を誘うかのような追松に対し,半兵衛が用いた策であって,これに対する追松の対応も重要な要素である。したがって,物を投げられた相手の対応と一体のものとして,被告番組における表現を考察すべきであるところ,鈴を投げられた追松の対応を含めて原告脚本と被告番組とでは具体的な描写が異なるものであって,この点を考慮すれば,注意をひきつけるために物を投げる点が共通しているからといって,被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。
イ 武蔵が地面に突き立ててあった刀で戦う場面について(別紙対比目録1及び2記載の11)
 原告脚本には,村人が落ち武者狩りによって手に入れた刀を菊千代が鞘から抜いて自分の後に突き立て,野武士との戦いで刀が刃こぼれすると,地面に突き立てられた抜き身の刀を使って戦うという場面がある。一方,被告番組には,野盗と斬り合ううちに刀が折れた武蔵が,あらかじめ地面に突き立てておいた槍や刀を抜いて戦うという場面がある。
 原告脚本と被告番組とを対比すると,刀が使えなくなるとあらかじめ地面に突き立てておいた武器に取り替えて戦いを続けるという点が共通する。しかし,乙21ないし25によれば,剣豪将軍として名高かった将軍足利義輝が松永久秀の軍勢に襲撃された際に,自らの周囲にあまたの名刀を突き立て,刀を取り替えつつ奮戦したが,衆寡敵せず,殺害されたという故事があり,多くの時代小説等において取り上げられていることが認められる。
 上記のとおり,戦闘においてあらかじめ地面に突き立てておいた刀等を用いて戦うという設定自体は,時代小説等においてしばしば見られるものであり,加えて,原告脚本と被告番組では,上記の場面における具体的な戦闘状況の描写は異なるものであるから,上記の共通性をもって被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。
(4) 被告番組と原告脚本の対比において,@,B及びCの類似点並びにAの類似点に加えて被告脚本に基づかずに被告NHKが原告脚本から直接翻案したと主張されている部分(別紙対比目録2記載の被告番組の内容のうち,6及び11)をも併せ考慮して,これらが組み合わされることによって,原告脚本全体が想起されるということができるかどうかについて,検討するに,上記@ないしCに被告脚本にない上記2箇所を含めて総合的に考慮して,全体的に比較しても,被告番組と原告脚本とでは,各場面のストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上,具体的な描写も異なるものであり,被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。
(5) 上記によれば,原告脚本と被告番組を対比すると,前記のとおりいくつかの場面等において一定の共通点が認められるが,結局,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告番組から感得することはできないから,被告番組による原告脚本についての著作権(翻案権)及び亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない。
3.被告脚本による原告映画の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害の有無(争点3)
(1) 原告映画は,原告脚本に依拠してこれを翻案して製作された,原告脚本の二次的著作物であって,原告脚本とは,その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。
 本件において,原告らは,被告脚本を原告映画と対比すると,上記2(2)記載の@,B及びCの類似に加えて別紙対比目録1における被告脚本の内容(ただし,6及び11を除く。)は,別紙対比目録2記載の原告映画の内容(ただし,6及び11を除く。)と類似するなどとして,被告脚本は原告映画の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害すると主張している。
(2) そこで検討するに,原告らが被告脚本の内容が原告映画の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害する理由として述べるところは,被告脚本による原告脚本の著作権及び著作者人格権侵害の理由として述べるところと同様である。
 上記のとおり,原告映画は原告脚本の二次的著作物であって,脚本とこれにより製作された映画という関係上,原告映画は原告脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであるところ,前記「判断の前提となる事実」(前記第2,1(3))記載の事実及び甲10,乙1により認められる被告脚本及び原告映画の内容に照らせば,原告らが類似点として挙げる上記の各点について原告映画と対比する上では,原告映画においては,原告脚本の特徴に付け加えるべき点はない。
 したがって,前記1(争点1についての判断)において説示したのと同様の理由により,被告脚本については,これから原告映画の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められない。
(3) 上記によれば,原告映画と被告脚本を対比すると,いくつかの場面等において一定の共通点が認められるが,結局,原告映画の表現上の本質的な特徴を被告脚本から感得することはできないから,被告脚本による原告映画についての亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない。
4.被告番組による原告映画の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害の有無(争点4)
(1) 被告番組は,被告脚本に依拠してこれを翻案して製作された,被告脚本の二次的著作物であって,被告脚本とは,その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。一方,原告映画は,原告脚本に依拠してこれを翻案して製作された,原告脚本の二次的著作物であって,原告脚本とは,その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。
 本件において,原告らは,被告番組を原告映画と対比すると,上記2(2)@,B及びCの類似に加えて,被告脚本に基づいて製作された部分(別紙対比目録2における被告番組の内容。ただし,6及び11を除く。)並びに「朱実が腰につけていた鈴を半兵衛が投げるシーン」(別紙対比目録2の被告番組の内容6)及び「武蔵が地面に突き立ててあった刀を抜くシーン」(別紙対比目録2の被告番組の内容11。別紙対比目録2の被告番組の内容のうち6及び11のシーンは被告脚本にはない。)において原告映画(別紙対比目録2記載の原告映画の内容)と類似するなどとして,被告番組は原告映画の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害すると主張している。
(2) そこで検討するに,原告らが被告番組の内容が原告映画の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害する理由として述べるところは,被告番組による原告脚本の著作権及び著作者人格権侵害の理由として述べるところと同様である。
 上記のとおり,原告映画は原告脚本の二次的著作物であって,脚本とこれにより製作された映画という関係上,原告映画は原告脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであるところ,前記「判断の前提となる事実」(前記第2,1(3))記載の事実及び甲10,24により認められる被告番組及び原告映画の内容に照らせば,原告らが類似点として挙げる別紙対比目録2記載の各点について被告番組と対比する上では,原告映画においては,原告脚本の特徴に付け加えるべき点はない。
 したがって,前記2(争点2についての判断)において説示したのと同様の理由により,原告らの主張する被告番組の上記の各点については,これから原告映画の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められない。
 なお,原告映画は原告脚本に基づいて製作され,原告脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであり,被告番組は被告脚本に基づいて製作され,被告脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであるが,原告映画と被告番組はともに映画の著作物であることから,これを対比する場合,上記の検討に加えて,映像として表現されている各場面のカメラワーク,カット割り,音声等の画像特有の点をも対比するのが相当であるところ,原告映画は,各画面において上記の各点においてその技法に優れ,高度の芸術性を有するものであるが,本件において原告らの主張する各類似点について被告番組と対比を行う上においては,特に特定の場面の画像についてその映像上の技法・特徴を付加して対比を行うまでの必要は見受けられない(原告らは,「戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現」について,特に原告映画の特徴として主張するが,この点の類似をいう点についても,前記1(2)エに記載したのと同様の理由により,被告番組が原告映画の表現上の本質的な特徴を感得させるということはできない。)。
(3) 上記によれば,原告映画と被告番組を対比すると,いくつかの場面等において一定の共通点が認められるが,結局,原告映画の表現上の本質的な特徴を被告番組から感得することはできないから,被告番組による原告映画についての亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない。

〔知財高裁の判断〕
1.本件訴訟は,被控訴人Cの脚本の下に被控訴人日本放送協会(NHK)が製作し平成15年1月から放映を開始した大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の第1回(1月5日)放映分の中に,映画監督Dほか2名の共同執筆に係る脚本を基に東宝株式会社が昭和29年に製作した劇映画「七人の侍」との間で,原判決対比目録1,2記載のとおり,脚本と脚本及び番組と映画との関係で類似した点があり,これらが,Dが前記脚本及び映画に対して有する著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)を侵害するか否かが,大きな争点である。
 当裁判所も,著作権法27条にいう「翻案」とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいい,したがって,既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若しくはアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案には当たらないと解するのを相当とする(最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。前記映画は,原判決も指摘するように,前記番組に比しはるかに高い芸術性を有する作品であることは明らかであるものの,以下に述べるとおり,前記番組が前記映画との間で有する類似点ないし共通点は結局はアイデアの段階の類似点ないし共通点にすぎないものであり,前記映画又はその脚本の表現上の本質的特徴を前記番組又はその脚本から感得することはできないというべきであるから,前記番組がDの有する前記著作権(翻案権)を侵害するものではない。その理由は,Dの有する著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)に対する判断を含め,次のとおり付加するほか,原判決「事実及び理由」欄の第3の1〜4のとおりであるから,これを引用する(ただし,原判決38頁下7行目の「7人」を「6人」に訂正する。)。
2.当審における控訴人らの主張に対する判断
(1) 本件の特異性と題する部分について
ア 控訴人らは,対象となる原著作物が著名である場合には,その翻案との類比の判断は容易であり,全体的な対比を行わなくても,一つ二つの特徴的な場面を抜き出しただけでも,一般人は両者を類似であると判断することができること,被控訴人らは自らの作品(被控訴人原作小説という著名な作品の翻案)の一部に「七人の侍」のストーリー及び象徴的な場面を一種の劇中劇のような形で取り込み,はめ込んだもの(はめ込み型模倣)であって,従来の手法による対比は有効ではないこと,翻案者にとっては,「七人の侍」のように対象となる原著作物が著名である場合には,何をどの程度避ければ盗作といわれないかについて明白な予想ができることなどを理由に挙げ,それが無名の著作物である場合と比べて,翻案との類似度が低くても,「感得」の要件が満たされると判断すべきであると主張する。
 しかしながら,著作権法の保護を受ける著作物とは,「思想又は感情を創作的に表現したものであって,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法2条1項1号)であり,それが著名であるか否かによって,その保護に差異があるということはできない。そして,「翻案」(著作権法27条)とは,前述のように,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいうところ,著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得するものであるか否かも,対象となる原著作物が著名であるか否かによって差異があるということはできないから,控訴人らの上記主張も採用することができない。
イ また,控訴人らは,本件は,不正競争防止法が直接適用される事案ではないが,不正競争防止法的考察は,本件を理解するために不可欠であり,不正競争防止法2条1項2号の趣旨を引用して,本件における,「七人の侍」の著名なストーリー及び象徴的場面を盗用した被控訴人らの行為は,「七人の侍」が有している顧客吸引力にフリーライドし,控訴人らの名声を害する不正競争の行為であるなどとも主張する。
 しかしながら,本件が不正競争防止法が直接適用される事案ではないことは,控訴人らも自認するとおりであるところ,不正競争防止法は,「事業者間の公正な競争及びこれに関する国際的約束の的確な実施を確保するため,不正競争の防止及び不正競争に係る損害賠償に関する措置等を講じ,もって国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする」(不正競争防止法1条)ものであり,「著作物並びに実演,レコード,放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め,これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ,著作権者等の権利の保護を図り,もって文化の発展に寄与することを目的とする」(著作権法1条)著作権法とは,その立法趣旨,保護対象等を全く異にするから,不正競争防止法2条1項2号の趣旨が著作権法に関する紛争である本件に及ぼされるものということはできない。そして,著作権法上,著作物が著名であるか否かによって,その保護に差異があるということはできないことは上記のとおりであり,原告の上記主張も採用することができない。
(2) 原判決の判断の誤りと題する部分について
 控訴人らは,対象となる原著作物が著名である場合には,それが無名の著作物である場合と比べて,翻案との類似度が低くても,「感得」の要件が満たされると判断すべきであることを前提とした上で,被控訴人らは,自らの作品である「武蔵 MUSASHI」(「宮本武蔵」という著名な原作小説の翻案)の一部に,「七人の侍」のストーリー及び象徴的な場面を,一種の劇中劇のような形で取り込み,はめ込んだ「はめ込み型模倣」ないし「象徴場面型模倣」であって,「怪しい男が実は女であったという場面」(原判決別紙対比目録1記載の類似点1),「侍の腕試し場面」(原判決別紙対比目録1記載の類似点2〜5),「野盗との戦闘場面」(原判決別紙対比目録1記載の類似点7〜10),島田勘兵衛(七人の侍)と内山半兵衛(武蔵 MUSASHI)及び久蔵(七人の侍)と追松(武蔵 MUSASHI)の人物設定,「戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現」,「注意を引きつけるために物を投げる場面」(原判決添付別紙対比目録1及び2記載の6)及び「武蔵が地面に突き立ててあった刀で戦う場面」(原判決添付別紙対比目録1及び2記載の11)について,原判決が相違するとした点は,いずれも「はめ込み型模倣」ないし「象徴場面型模倣」の当然の帰結にすぎない等と主張する。
 しかしながら,対象となる著作物が著名である場合には,それが無名の著作物である場合と比べて翻案との類似度が低くても「感得」の要件が満たされると判断すべきであるとの前提を採用し得ないことは,上記(1)のとおりである。そして,「七人の侍」と「武蔵 MUSASHI」を対比すると,いくつかの類似点ないし共通点が認められるが,これらはいずれもアイデア等,表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって,後者の表現から前者の表現上の本質的な特徴を直接感得することができないことは,原判決も詳細に説示するとおりである。控訴人らの上記主張も採用することができない。
3.結論
 以上によれば,被控訴人Cの脚本及び被控訴人日本放送協会の番組は,控訴人ら脚本の著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)並びに控訴人ら映画の著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)を侵害するものと認めることはできないから,控訴人らの被控訴人らに対する請求をいずれも棄却した原判決は相当である。 

[論  説]
1.この事件の争点は、黒沢明監督が劇映画「七人の侍」の脚本と映画の著作権(翻案権)、及び著作者人格権(氏名表示権・同一性保持権)を侵害するか否かにあった。
 知財高裁は、「翻案」について、最高裁判決を引用しつつ次のように説示する。
 「著作権法27条にいう「翻案」とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいい、したがって、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのを相当とする。前記映画は、原判決も指摘するように、前記番組に比しはるかに高い芸術性を有する作品であることは明らかであるものの、前記番組が前記映画との間で有する類似点ないし共通点は結局はアイデアの段階の類似点ないし共通点にすぎないものであり、前記映画又はその脚本の表現上の本質的特徴を前記番組又はその脚本から感得することはできないというべきであるから、前記番組がDの有する前記著作権(翻案権)を侵害するものではない。」
 結局、「武蔵」との間の類似性や共通性は、アイデアの段階でのそれであり、「武蔵」で表現されたシーンから、「七人の侍」の有する本質的特徴を感得することはできないと判示し、著作権(翻案権)侵害とならないと判断したことになる。これを新聞の見出し風に書けば、「似ているけど、似ていない」(朝日新聞2005年6月15日37頁)となるのかも知れない。判決の言を借りるならば、「七人の侍」の芸術性の高さに比較すると、「武蔵」のそれははるかに低いということになる。

2.原告(控訴人)は、「武蔵」の脚本と「七人の侍」の脚本とを、各シーンについて対比した目録を提出している。
 しかし、これについても判決は、前記翻案の成立要件を適用し、「後者の表現から前者の表現上の本質的特徴を直接感得することができない」と判示しているが、この対比においても「七人の侍」の芸術性の高さを評価している。

3.このように考えてくると、アニメを含め映画の場合は、アイデアの模倣は自由であり、具体的な表現形式がある程度異なれば、著作権侵害の成立は困難なケースが殆どということになるだろう。
 創作か模倣かのすれすれの例として、「舞台用造形美術品」事件(→D33)の判決があるが、「スイカ写真」事件(→D24)の場合の東京地裁判決を覆した東京高裁判決は大英断といえるかも知れない。
 いずれにせよ、アイデアの模倣と著作権との関係は永遠に平行線のままとなるのだろうか。
 私が最近読んでいる本に浜野保樹著「模倣される日本」(祥伝社新書)があり、外国における日本文化の模倣について多くの示唆を与えている。

 


 

[牛木理一]