第1−15



著作物の類似概念
      ―著作権の保護範囲を考える―

牛  木  理  一


 

 

    1.はじめに
    2.被写体の創作性(「西瓜写真」事件に見る)
    3.判断基準としての類似性
    4.複製・翻案
    5.むすび


1.はじめに
1.著作物(work)とは、わが国著作権法によれば、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」(著2条1項1号)と定義され、3つの成立要件を規定する。
 第1の要件の「思想又は感情を表現したもの」とは、作者独自の精神活動による成果として生み出されたものをいい、その表現が何らかの媒体に固定されている必要はない(1)。
 しかし、著作権の保護対象となるものは、具体的な外面的表現物だけか、あるいはその背後にあるその内容となる抽象的な内面的表現形態か、あるいは内面的表現形態の由来となる思想又は感情(アイディア)にまで及ぶのかが問題となる。これについて、斉藤博教授は、「音楽や詩,抽象美術のような形式と内容がさほどに峻別できない著作物もあるが、文芸の著作物や学術の著作物の多くは内容の独自性につき保護が求められる。・・・・著作物の中には、その形式の独自性を認めることができるものもあるが、内容と形式が一体となって独自性を確保しているものもある。さらには、その内容にこそ独自性を認めうるものもある。(2)」と言及されている。
 「思想又は感情を表現したもの」といえば、機械の設計図のような実用品に関する図面も、著作権法10条1項6号に例示してあるものと解されることから、内容が機械についての技術的思想に関するものであっても、それが設計図という表現形式に表現されているものである以上、著作物性を有することになる。
 第2の要件の「創作的に表現したもの」とは、作者独自の思想・感情を駆使した創作活動の成果をいうから、実質的には、発明や意匠についての創作活動の成果と変わらないといえよう(3)。けだし、特許法の保護対象となる発明とは、「自然法則を利用した技術的思想の創作」(特2条1項)であり、意匠法の保護対象となる意匠とは、「物品の形状、模様若しくは色彩又はこれらの結合で、視覚を通じて美感を起させるもの」の創作(意2条1項、1条)であり、技術的思想や意匠の創作を保護対象としているからこそ、知的財産法といわれている。
 しかし、著作権法における「創作性」とは、著作者の個性が著作物の中に何らかの形で表現されていればよく、作者に主観的創作性(独自性)が存するだけで保護されるのに対し、特許法や意匠法では主観的創作性が存するだけでは保護されず、それが同時に客観的創作性、即ち新規性(特29条1項、意3条1項)及び進歩性(特29条2項)・創作力(意3条2項)を具備するとの評価を受けなければならない点が違う。
 斉藤教授は、創作的表現とは、「描写の表層部分のみを指すのではなく、考えなり思いが滲み出されているものである。」と述べられているが、この意味は、われわれはその作品を見たとき、そこに表現されている外面的形態だけにとらわれて創作性を認定するのではなく、その作品の内側にある内容(実体)をよく把握して創作性を認定する必要があるということであろう。表現物の独自性と表現方法の独自性とは区別しなければならないから、著作物の創作性は表現物の独自性に焦点を合わせたものでなければならない(4)。
 そうすると、絵として表現する美術の著作物と物品に表現する意匠(デザイン)との間には、保護対象のもつ創作性についての考え方に共通の思想が存するということができる。
 「ビル設計図」事件の東京地昭和60年4月26日判(5)は、被告の設計図は原告の著作に係る設計図を参照して作成されたものであり、一部に差異はあるものの、同一性を損なうものでないとして、他人の設計図に依拠し、これを複製したものと認定した。
 また、「丸棒矯正機設計図」事件の大阪地昭61(ワ)4752平成4年4月30日判(6)は、原告の本件設計図について、「原告の設計担当の従業員らが研究開発の過程で得た技術的な知見を反映したもので、機械工学上の技術思想を表現した面を有し、かつその表現内容(描かれた形状及び寸法)には創作性があると認められる。したがって、本件設計図は、それぞれ丸棒矯正機に関する機械工学上の技術思想を創作的に表現した学術的な性質を有する図面(著10条1項6号)たる著作物にあたるというべきである。」と認定した上で、被告が、その表現内容である寸法及び形状をそのまま用いたことは、「同種の技術を用いて同種の機械を製作しようとすれば、その設計図の表現は自ずから類似せざるを得ないという事情によって説明しうる範囲を超えているから」、被告設計図は本件設計図を「部分的に複製したものであり」、原告が同部分について有する複製権を侵害することになると認定した。
 すると、著作物として存在するものの本質は表現形式における創作性にあり、著作物を利用するとは、著作物の創作性のある表現形式を利用することを意味するといえる(7)。
 著作物の本質については、その創作過程から、内容、内面的表現形式、外面的表現形式の3段階に分析する学説が紹介されているが(8)、ここに「内容」と「アイディア(思想・感情)」との区別は明らかでないばかりか、区別する実益はないだろう。「アイディア」は著作権保護の対象とならないといわれるが、著作権者が保護を主張できる範囲は、外面的表現形式の依って来たる創作性であり、それ以上のものではないから、当該著作物の創作性として把握することができる範囲のもの(筆者はこれを「創作体」と呼ぶ。)に限られることになる。したがって、「アイディア」は仮に抽象的に説明することができるとしても、その「内容」が具体的に「外面的表現形式」として表現されていない限り、保護対象は存在しないことになるから、著作権は発生しない。
 第3の要件の「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」とは、広くこの中におさまると思われる作品であれば、問題はない。著作権法10条1項は著作物を例示しているにすぎないから、例示されていない新たな作品が誕生すれば著作物と認定されることになる。かって、「コンピュータ・プログラム」は、いくつかの裁判例によって学術の範囲に属する著作物と認定されたことから、「9. プログラムの著作物」として昭和60年6月14日法律62号によって追加規定されることになったものである(9)。
 「属するもの」とあって「属する物」でないのは、著作物とは「無体物」であって「有体物」でないことを意味する。絵画や写真などは有体物として表現され、最初に著作物が固定されたものを「原作品」(著18、19、25)というが、原作品とはいってもこれは著作物それ自体を意味するものではない(10)。

2.そこで、本論においては、特に「類似」(英訳では、”similarity”)の概念、即ち「創作的な表現」(英訳では、”expression in a creative way”)の概念について考えてみたい。
 「創作的な表現」とは、既述のように、独自の精神作業の成果を意味するから、著作物の成立要件としての「創作性」は、作者の個性、独自性と解される。換言すると、他人の作品に依拠することなく、独立して制作されたものと解される。したがって、先行する他人の作品に依拠することなく、偶然に類似または同一の作品が制作された場合には、それは別個の作品と認められることになる。
 被告作品が、先行する原告作品に対して創作的表現物といえるか否かが争われた代表的な事案としては、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」事件(最高昭和53年9月7日一小判)(11)があり、最近では「舞台用造形美術品」事件(東京地平成11年3月29日判.東京高平成12年9月19日判.最高平成14年9月24日三小決)(12)があり、いずれも依拠性なしとして請求棄却されている。
 ところが、「西瓜写真」事件では、原告被写体の創作性及びそれへの依拠性をめぐって、東京地裁と東京高裁との事実認定が対立し、前者で認められなかった創作性と依拠性が後者では認められ、最高裁もそれを追認した。
 そこで、以下においては、「西瓜写真」事件に見られる「創作的表現」と「類似」の関係について論じ、この議論を、依拠による翻案と認定した「キャンディ・キャンディ」事件判決に見られる小説原稿と連載漫画の関係に発展させ、最後に、作品の類似性をめぐる複製と翻案の違いについての裁判所の考え方に論及する。

 (1) 斉藤博「著作権法」70頁
 (2) 斉藤前掲70頁
(3) 斉藤前掲71頁は、「同じく無体財産であっても、発明や考案、意匠について論じられる創作性とは峻別しなければならない。」と述べられているが、両者の創作性について峻別しなければならない理由はなく、「創作性」の意味の捉え方の違いだけであると筆者は考える。
 (4) 斉藤前掲71頁
 (5) 判タ566号267頁
(6) 知的裁集24巻1号292頁、判時1436号104頁。この事件で、原告は、被告丸棒矯正機の制作は、本件設計図に基づく複製となると主張したが、判決が複製を認めたのは、設計図全体ではなく、特定の寸法やこれに規定された形状に過ぎないことから、「これをも侵害するとする判示は、実用品に関する特別な配慮を抜きにしても、一般的な基準に照らして既に疑問である。」(玉井克哉:「工作機械の設計図」ジ別著判選2版55頁)との批判がある。本件訴訟で原告が狙ったものは、自社機械を模倣した被告機械の製造販売を阻止することにあったが、これについては、「矯正機の如き実用の機械は、建築の著作物とは異なり、それ自体は著作物としての保護を受けるものではない(それと同一性のある機械を製作しても複製にはならない)。」から、設計図に基づく機械の製作が設計図の複製になるとの原告の主張は避けられた。
 (7) 橋本英史「著作権(複製権・翻案権)侵害の判断について(上)」判時1595   
   号22頁
 (8) 橋本前掲30頁
(9) プログラムの著作物は、コンピュータを作動する指令の組合わせが表現されているものである以上、本来、技術的機能性を有するものではあるが、アイディアそのものではない。しかし、特許発明とは当然のことながら、重なり合う技術的思想の創作部分もあるから、著作権としての保護範囲はオブジェクトコードを通してソースコードにも及ぶことになる。同じ問題は、美術の範囲に属する著作物についても存在する。それは、広く「デザイン」と呼ばれる作品に対する保護問題であり、一部は意匠法によって、一部は著作権法によって保護されてはいるが、「その余の相当広範な部分は必ずしも保護の筋道が示されないまま放置されてきた。・・・・・それは立法論というより、すでに解釈の次元で可能なのではなかろうか。」(斉藤・前掲81頁)。そして、「立法面においても、美術の著作物の一類型として、デザインを例示する段階にあるのではなかろうか。」(斉藤・前掲8頁注2)
(10) 吉田大輔「『著作物』の射程距離」知財管理51巻3号359頁(2001)
(11)民集32巻6号1145頁、渋谷達紀別ジ著判3版6頁。被告は、民放局に勤務していた昭和38、9年頃に「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」という楽曲(B曲)を作成、公表し、その後Y社にその著作権を譲渡したが、その立場上、被告がA曲を知らなかったとする特段の事情はなかったのではないか。そのためか、一審の判決理由と控訴審・上告審の判決理由には違いが見られる。この最高裁判決の後に、「モンタジュ写真パロディ」事件の最高裁判決があり(最高昭和55年3月28日三小判.民集34巻3号244頁)、被告(被上告人)のモンタジュ写真からは原告(上告人)の写真の本質的特徴を直接感得できるから、他人の著作者人格権の侵害に当たると判断され、正当な範囲の引用とは認められないとされた。
(12) 判時1689号138頁。
 

2.被写体の創作性(「西瓜写真」事件に見る)

1.東京地裁の判決(平成11年(ワ)8996号.平成11年12月15日判)(13)
 原告Kは、昭和61年7月、西瓜等を被写体にした写真(題名「みずみずしいすいか」(以下「原告写真」という)を撮影し、著作権及び著作者人格権を取得した。被告Yは、平成5年8月、西瓜等を被写体にした写真(以下「被告写真」という。)を撮影した。被告S社は、カタログ「シルエット in 北海道」(以下「被告カタログ」という)に、被告写真を掲載して発行し頒布した。
 本件は、原告は被告らに対し、著作権及び著作者人格権を侵害すると主張して、東京地裁にカタログの発行等の差止めと廃棄、損害賠償の支払、及び謝罪広告の掲載を請求した事案である。
 本件の争点は、@ 被告らの行為は、原告の原告写真の翻案権(著作権)を侵害するか、A 被告らの行為は、原告の原告写真の同一性保持権(著作者人格権)を侵害するか、の2点であった。             
 東京地裁は、次の理由によって請求棄却の判決をした。
(1) 一般に、特定の作品が先行著作物を翻案したものであるというためには、先行著作物に依拠して制作され、かつ先行著作物の表現形式上の本質的特徴部分を当該作品から直接感得できる程度に類似していることが必要である。
(2) 写真に創作性が付与される所以は、被写体の独自性によってではなく、撮影や現像等における独自の工夫によって創作的な表現が生じ得ることによる。2つの作品が類似するかどうかを検討するに当たっては、特段の事情のない限り、被写体の選択、組合せ及び配置が共通するか否かではなく、撮影時刻、露光、陰影の付け方、レンズの選択、シャッター速度の設定、現像の手法等において工夫を凝らしたことによる創造的な表現部分、即ち本質的特徴部分が共通するか否かを考慮して判断する必要がある。
(3) 原告写真は、@中央前面に氷を敷き、Aその後方に、縞模様のある楕円球の大型の西瓜を横長に置き、右西瓜を半分に切った上、さらに小さくV字型の切り欠きを6か所設け、B右切欠部分のそれぞれに、扇型に薄く切った赤い西瓜を6切れ、右側に傾かせて一列に並べ、C後方左側には大小2つの丸い 西瓜を、後方右側には藤の籠に入った楕円球の2つの西瓜を、横長に、それぞれ配置し、D後方の西瓜の上には、蔓をからませ、E背景を青くしたり、後方の西瓜の表面に光が当てられるよう工夫を凝らして撮影された写真である。
 これに対し、被告写真は、@中央前面に、表面が無地の、楕円球の西瓜を横長に置き、水平後方に半球状(ボウル状)に切り、A右半球の上に、扇型に薄く切った赤い西瓜を6切れ、左側に傾かせて一列に並べ、B後方及び右側には大小3つの丸い西瓜を、後方右側には表面が無地の楕円球の西瓜1つを、それぞれ配置し、C丸い西瓜の上には、蔓をからませ、D背景を青くして撮影した写真である。被告写真は、青果物を被写体とした他の8枚の写真作品とともに、被告カタログの125頁に掲載されている。
 原告写真と被告写真を対比すると、以下の点で相違する。即ち、@原告写真においては、中央前面に、V字型に切り欠かれ、縞模様のある西瓜が配置されているのに対し、被告写真においては、水平方向に半球状に切られ、無地の西瓜が配置されていること、A原告写真においては、扇型に薄く切られた西瓜は、右側に傾かせて配置されているのに対し、被告写真においては、左側に傾かせて配置されていること、B原告写真においては、中央前面に氷が敷かれたり、籐の籠を配置しているのに対し、被告写真においては、氷や籐の籠は配置されていないこと、C原告写真においては、光の当て方その他において様々な工夫が凝らされているのに対し、被告写真においては、格別の工夫はされていないこと、D原告写真においては、中央に配置された西瓜及び薄く切られた西瓜は、やや下方から撮影されているのに対し、被告写真においては、やや上方から撮影されていること等、様々な点で大きく相違する。
(4) 原告写真と被告写真を対比すると、そもそも異なる素材を被写体とするもので、その細部の特徴も様々な点で相違するから、アイディアの点では共通するものの、この共通点は写真の著作物である原告写真の創作性を基礎づけるに足りる本質的特徴部分についてのものでないから、被告写真は原告写真の表現形式上の本質的特徴部分を直接感得できる程度に類似したものとはいえない。したがって、被告写真は原告写真を翻案したものではない。

2.東京高裁の判決(平成12年(ネ)7509号.平成13年6月21日判)(14)
(1) 裁判所は両者の写真を対比して見て、まず直感的に、被告(被控訴人)の写真は原告(控訴人)の写真の複製又は翻案ではないかと疑い、その疑いの妥当性を検証した。
 そこで、両写真を対比しその「表現形式」のいかんを検証した結果、まず被写体の決定において、両写真は素材の選択、組合せ、配置が著しく似ていると認定し、そこに表現されている各素材の共通性を指摘した。また同時に、相違点についても指摘した。
(2) 次に、被告写真が原告の本件写真に「依拠」したものかどうかについて、両写真の表現形式の類似性を次のように検証した。
 第1に、使用する素材について比較し、「西瓜を主題(モチーフ)とする写真を撮影する場合、多種多様な西瓜があり、その数も任意に選択するもので、切り方も自由に選べる」のだから、「本件写真と被控訴人写真のように、西瓜の種類、個数、切り方から、葉や花を伴った西瓜の蔓があること、青いグラデーション用紙を使用することまで一致することは、偶然には生じ得ないこととはいえないであろうが、偶然に生じる確率を大きいものとすることもできないであろう。」と認定した。
 第2に、被写体の配列を比較し、「いずれも、前面中央の半分に切った大きな楕円球の西瓜ないし冬瓜の上に、略三角形に切った6切れの西瓜を傾斜させて一列に並べて配置し、その背後には、大きい円球の西瓜を配置し、その左側に小さい円球の西瓜を配置し、右側には籐の籠ないしざるを用意し、同所に大きい楕円球の西瓜ないし冬瓜を配置し、その右前方に小さい円球の西瓜を配置し、これらの西瓜の上には、葉や花を伴った西瓜の蔓1本を配置し、背景として、グラデーション用紙により盛夏を思わせる青色の色彩としていることが認められる。」と認定した。
 第3に、本件写真の素材自体については、「西瓜(切ったもの、丸のままのもの)、西瓜の蔓、ブロック状の氷、籐の籠、背景としての青であって、日常生活の中によく見られるありふれたものばかりであることが明らかである。しかし、その構図、すなわち、素材の選択、組合せ及び配置は、全体的に観察すると、西瓜を主題(モチーフ)として、人為的に、夏の青空の下でのみずみずしい西瓜を演出しようとする、作者の思想又は感情が表れているもので、この思想又は感情の下で、前記のありふれた多数の素材を、本件写真にあるとおりの組合せ及び配置として一体のものとしてまとめている。」そして、他の者が、このような作為的な表現についての発想を、控訴人とは全く別個に得る可能性は全くないとすることはできないだろうが、「このように一致した配置及び構図の着想に至ったのが偶然であったとしたら、相当に珍しいことが生じたものということは許されるであろう。」と説示した。
 第4に、本件写真の配置について、「被控訴人Yは、上記主張を裏付けるための何らの立証をもしていない。もし、本件写真がありふれたものであるならば、本件写真のような素材を選択して配置した写真、西瓜の背景としてグラデーション用紙を利用した写真等を、証拠として提出できるはずである。しかし、そのような作品は、証拠として全く提出されていない。全証拠を検討しても、そのような作品を見いだすことはできない。被控訴人Yは、自分自身プロの写真家なのであるから、上記主張が正しいなら、自己が過去に撮影した膨大な写真の中から、被控訴人写真と類似する写真を提出することができるのではないかと思われるのに、これをしていない。被控訴人Yが自己の撮影した写真として提出する証拠によれば、同人は、北海道の大自然、風景、動植物、食材等のありのままの姿を撮影することを作風としていることが認められ、同事実からすると、被控訴人写真においてなされている作為的な表現は、被控訴人Yの作風とは、著しく異なっているものと考えざるを得ない。」と認定した。
 この結果、「本件写真と被控訴人写真との上記類似性は、被控訴人写真が本件写真に依拠して作成されたものであることを強く推認させる事情となっている。」と判断した。
 裁判所は、両写真の「類似性」の根拠について明らかにし、被告写真の著作権侵害性の心証をさらに裏付けるものとして、本件写真が刊行物に掲載されたことに加えて、「被控訴人会社の代表者であるIは、平成5年2月下旬ころ、写真原稿寄託業務契約に関し、控訴人の事務所を訪問し、その後の同年3月18日、再度、控訴人の事務所を訪れた際、控訴人の作品である『Kの旬菜果』を購入して持ち帰ったこと、被控訴人YとIは、平成4年ころから取引を開始し、被控訴人Yは現在までに約5万枚の写真を被控訴人会社に預けていること、被控訴人Yは、平成5年8月18日ころに被控訴人写真を撮影し 、その後、時期は不明であるが、この写真を被控訴人会社に寄託していたこと、被控訴人会社は、被控訴人写真を、自社の被控訴人カタログに掲載したことが認められる。」と事実を明らかにした。そして、「被控訴人Yが、被控訴人写真を撮影したのは、Iが『Kの旬菜果』を入手してから5か月後の時期であり、被控訴人YとIとの上記関係からすれば、被控訴人Yには、被控訴人写真を撮影する前に、本件写真に接する機会があったことが明らかである。被控訴人Yは、Iの所持していた『Kの旬菜果』を見ることが物理的に可能であり、本件写真に依拠し得る立場にいたものということができる。」と認定するに至った。
 また、裁判所は、被告写真に写っている楕円球の西瓜様のものは冬瓜であると認定し、「被控訴人写真が西瓜を主題(モチーフ)とする作品であることは、写真自体から明らかであり、被控訴人Y自身も認めるところであって、これに冬瓜を加えるのは、明らかに主題に反することであり、通常の社会常識からすれば、異例なことである。逆にいえば、そこには、冬瓜を西瓜に見せかけて加えざるを得なかった何らかの必要があったことを強くうかがわせるものである。」と説示した。
 その結果として、被告Yは、本件写真に依拠して被告写真を撮影したと認め、かつ、被告Yは本件写真に依拠しない限り、到底被告写真を撮影することができなかったと認定し、依拠を否定する被告Yの主張はいずれも採用されなかった。
(3) そこで、裁判所は、被告Yの侵害行為について検証した。
 それは、8つの相違点の検討から入ったが、その結果、「被控訴人写真は、本件写真の表現の一部を欠いているか、本件写真を改悪したか、あるいは、本件写真に、些細な、格別に意味のない相違を付与したか、という程度のものにすぎないのであり、しかも、これらの相違点は、そこから被控訴人Y独自の思想又は感情を読み取ることができるようなものではない。本件写真は、作者である控訴人の思想又は感情が表れているものであるから、著作物性が認められるものであり、被控訴人写真は、本件写真に表現されたものの範囲内で、これをいわば粗雑に再製又は改変したにすぎないものというべきである。このような再製又は改変が、著作権法上、違法なものであることは明らかというべきである。」と判示した。
 このような裁判所の判示に対し、被告は、先行著作物と被写体が同一ないし類似のものである写真を撮影してはならないとなると、写真による表現行為は著しく制約されることになり、創作活動の動機付を与えようとする著作権法の趣旨に反すると主張した。
 これに対し裁判所は、「先行著作物と被写体が同一ないし類似のものである写真一般について、そのような写真を撮影するのが著作権法に違反するといっているのではない。特に、先行著作物の被写体を参考として利用しつつ、被写体を決定し、自らの創作力を発揮して新しい写真を撮影することが、著作権法に違反するといっているのではない。当裁判所がいっているのは、先行著作物において、その保護の範囲をどのようにとらえるべきかはともかく、被写体の決定自体に著作権法上の保護に値する独自性が与えられているとき、上記のような形でこれを再製又は改変することは許されないということだけである。したがって、上記のように解したからといって、写真による表現行為が著しく制約されるということに、決してなるものではない。」と説示した。
(4) また、著作権法20条が規定する同一性保持権に対する侵害について、裁判所は、「前記認定の事実によれば、被控訴人Yは、本件写真と類似する被控訴人写真を製作し、被控訴人カタログに掲載したのであり、被控訴人写真が本件写真と相違していることからすれば、被控訴人Yは、本件写真の表現を変更しあるいは一部切除してこれを改変したものであることが、明らかである。したがって、被控訴人Yの行為は、著作者である被控訴人の承諾又は著作権法の定める適用除外規定に該当する事由がない限り、本件写真について控訴人が有する同一性保持権を侵害するものとなる(著20)。ところが、被控訴人Yにつき、控訴人の承諾を得ているとも、著作権法の定める適用除外規定に該当する事由があるとも認められないから、被控訴人Yの行為は、本件写真について控訴人が有する同一性保持権を侵害するものである。」と判示した。
 被告作品に、創作性の認められる原告作品に依拠した事実が認定された以上、原告の被写体を改変して再製したものと見られても仕方がないだろう。
 
3.地裁判決と高裁判決の見方の違い
 両判決に一致している基準は、「翻案」とは、先行する原告作品の表現形式上の本質的特徴部分を、被告作品から直接感得できる程度に類似しているか否かにあるとした点である。これについて、地裁は両作品の本質的特徴部分の共通性を直感しなかったのに対し、高裁は地裁の判断を直感的に疑ったのである。その差は、次の点によるものであった。
 それは、写真の創作性について、東京地裁は、被写体の独自性によってではなく、撮影や現像等における独自の工夫によると解し、被写体の選択、組合せ及び配置が共通するかではなく、撮影時刻,露光,陰影の付け方,レンズの選択,シャッターの速度の設定,現像の手法などの技術的な面に工夫を凝らしたことにあり、これによる表現部分である本質的特徴部分が共通するか否かをもって判断したのに対し、東京高裁は、(1)写真のモチーフ、(2)被写体の配列,配置、(3)構図の着想、(4)作風などに及んで、これを本質的特徴部分として共通するか否かを判断したのである。
 その結果、東京地裁は、被写体についてのアイディアの共通性は認めたが、被告写真は原告写真の表現形式上の前記の本質的特徴部分を直感しないから、依拠による類似性はないと認定した。
 これに対し、東京高裁は、写真撮影の対象となった被写体自体の創作性を認め、被告はこの被写体に依拠しなかったならば、彼の作風からして到底完成することはできないと判断し、これをさらに裏付ける証拠としてもう一人の被告である出版社が原告の事務所を2回訪問し、2回目の時には原告の本件写真の掲載した写真等を購入して帰っていること、被告と被告出版社とはその前年から取引を開始していることなどを考慮すると、被告が写真撮影する前に、原告の写真等を見ることは物理的にも可能であったから、本件写真に依拠し得る立場にあったと認定した。
 この東京高裁の事実認定の中で、被告が、写真については同一のものでない限り、著作権や著作者人格権の侵害とはならないとするのが写真業界の定説だとの主張に対し、判決は、これでは写真の著作物は著作権法を無視せよというに等しいと一喝していることは注目される。
 ということは、被告による原告写真への依拠とそれに基く再製(著21)又は翻案(著27)は、結果として、原告写真を粗雑に再製(複製)又は改変したことになると判断された。
 このように東京高裁判決が、両写真の依拠による類似性を認めて再製又は改変と判断した根拠は、原告写真の被写体に創作性を認めたことにあった。この考え方は、従来の写真の著作物についての著作権の成立要件のカラを破っているともいえるが、カメラマンによる新しい被写体の出現は、表現上の創作性の程度は別として、舞踏家が踊りの振付けをすると同じように、独自の工夫をこらして創作する場合もあることを考えるならば、保護すべき著作物となり得ることに問題はないというべきである。表現物の独自性と表現方法の独自性とは区別しなければならない。

 (13) 知財管理別冊判例集CD東京民29、1999‐066
(14) 判時1765号96頁。最高裁(平成13年(オ)1391号.平成13年(受)1362号.平成14年6月27日一小判)は、「本件上告を棄却する。本件を上告審として受理しない。」との判決をした。

3.判断基準としての類似性

1.依拠・本質的特徴・直接感得との関係(必要条件として)
 前記「西瓜写真」事件において、東京地裁も東京高裁も「翻案」の定義を、先行する原告作品の表現形式上の本質的特徴部分を、被告作品から直接感得することができる程度に類似していることをいうと解した点では一致する。しかし、地裁はその事実を直感しなかったのに対し、高裁はその事実を直感したのであった。そして、高裁は、原告写真の被写体の創作性を確認した上で、被告写真は原告写真に依拠したものであることを、両写真における具体的な表現形式の類似性に認めたのであった。
 ここに翻案物とは二次的著作物といわれるものであるが、二次的著作物とは、「著作物を・・・・翻案することにより創作した著作物をいう。」(著2条1項11号)と定義されているから、原著作物には認められないプラスアルファの創作性が認められるものでなければならない。
 すると、小説原稿と連載漫画という表現形式の全く異なる2つの作品の場合にあって、後者は前者に依拠した翻案物となるか否かが争われた「キャンディ・キャンディ事件(東京地平成11年2月28日判,東京高平成12年3月30日判,最高平成13年10月25日三小判)(15)において、いずれの裁判所も原告の主張を認容したが、果たしてそれでよいのか大きな疑問が残る。つまり、表現次元の全く異なる後者は前者の表現形式上の本質的特徴部分を、直接感得することができる程度に類似しているものと認定することが、本質的に可能なのかという疑問であり、前記「西瓜写真」事件判決との関係の整合性である。
 そこで、いま東京地裁レベルでの2つの判決事件の「西瓜写真」の作品の対立と「キャンディ・キャンディ」の漫画キャラクターをめぐる小説原稿と絵との対立とについて考える。すると、前者では、被告の写真作品からは原告の写真作品の本質的特徴を直接感得しないから類似する作品とはいえないと認定するとの考え方を、後者の事件でも同様に採用するならば、被告の連載漫画からは原告の小説原稿の本質的特徴を直接感得することは到底できないから、依拠した作品とはいえないと認定することになる。換言すれば、後者事件において、被告の連載漫画は、原告の小説原稿とのストーリー・アイディアの点では共通していても、この共通点は原告小説の創作性や表現形式を反映する本質的特徴部分についてのものではないし、また被告の連載漫画を見ても、そこから原告小説の本質的特徴を想像することは可能でも、直接的に感得することは到底不可能である。
 そうであってみれば、「キャンディ・キャンディ」事件の地裁判決が、被告の連載漫画を原告の小説原稿に依拠してその翻案による二次的著作物であると認定したことは、被告漫画が原告小説の本質的特徴を直接感得することができたといえるかどうかの評価を忘却しているから、「西瓜写真」事件に見られる地裁判決の考え方とは整合しないことになる。この両者の考え方を整合するためには、他人の創作した作品からの依拠論を展開するときに不可欠な「本質的特徴の直接感得」の要件の具備を明確に認定すべきであっただろう。
 最高裁は、「上告人において、おおむねその原稿に依拠して漫画を作成するという手順を繰り返すことにより制作されたというのである。この事実関係によれば、本件連載漫画は被上告人作成の原稿を原著作物とする二次的著作物であるということができるから、被上告人は、本件連載漫画について原著作者の権利を有するものというべきである。」と一方的に認定し、依拠を前提に二次的著作物の成立を認めたが、その成立要件についての論理的な言及は避けている。
 しかし、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」事件の判決において、著作物の依拠性と複製との関係を判示した最高裁としては、「キャンディ・キャンディ」事件においても、翻案による二次的著作物の成立要件について、論理的に明確な判示をすべきであった。そして、原著作物の創作性に言及し、依拠+本質的特徴+直接的感得=翻案の関係式を明確に示すべきであったにもかかわらず、そのような論理をとらないから、説得力を欠く判決として批判されている。(16)

2.公益性との関係(十分条件として)
 依拠性が否定された「舞台用造形美術品」事件(東京地平成7年(ワ)24693号・25924号.平成11年3月29日判(17)では、本訴原告(反訴被告)は専ら独自の創作的表現を発揮して制作したことは明らかで、本件著作物を複製したものではないと判示したところ、東京高裁平成11年(ネ)2937号・4828号平成12年9月19日6民判)は、控訴請求は認めなかったものの、判決主文と理由を変更した。即ち、既存著作物+依拠+直接感得+類似=複製・翻案の関係について、次のように説示しているが、直接感得性は類似性を認めるための「必要条件」ではあっても、「十分条件」ではないと説示し、類似性判断のためのハードルをさらに高く上げている。
 「著作権法によって保護されるものは、直接には、『表現したもの』(『表現されたもの』といっても同じ。)自体であり、思想又は感情自体に保護が及ぶことがあり得ないのはもちろん、思想又は感情を創作的に表現するに当たって採用された手法や表現を生み出す本(もと)になったアイディア(着想)も、それ自体としては保護の対象とはなり得ない。」
 著作権者に専有権の与えられている「複製」・「翻案」とは具体的に、「既存の著作物に依拠してこれと同一のものあるいは類似性のあるものを作製することであり、ここに類似性のあるものとは、『既存の著作物の、著作者の思想又は感情を創作的に表現したものとしての独自の創作性の認められる部分』についての表現が共通し、この結果として、当該作品から既存の著作物を直接感得できる程度に類似したものである(最高昭和55年3月28日三小判・民集34巻3号244頁参照)。」
 しかし、注意すべきこととして東京高裁は、複製・翻案の判断基準の一つとしての類似性の要件である「直接感得性」は、類似性を認めるための「必要条件」であっても「十分条件」ではない。即ち、直接感得性という主観的要素は、表現されたものどおしを比較したときの共通性以外の要素によっても大いに左右される場合があるから、必ずしも常に類似性の判断基準として有効に機能することにはならないと説示している。
 そこで、新しく打ち出されたハードルは「公益性」であり、表現の共通性や直接感得性があったとしても、公益性や第三者利益との調整を重視する立場から、著作権法による保護は、「それにふさわしいものに対してそれにふさわしい範囲においてのみ認められるべきことになる」から、「表現したもの」のみを保護することにしたものと解すべきであるとした。そして、この条件をクリアすることが、前記した十分条件を果たしたことになるというが、著作権の保護範囲の問題に、新しい異質の基準を打ち出した判決である。(18)
 しかしながら、このような著作物の複製・翻案の有無を判断する要素として、直接感得性のほかに、さらに公益性や第三者利益との関係を調整しなければならないとすれば、これは正に特許権や意匠権の保護範囲を考えるときに要求される客観的評価と同一レベルとなってしまうが、ここまで至ってよいのか。
 東京高裁判決はこの点について、「著作権法による保護を、このようなものとして把握する場合、特許法、実用新案法が思想(技術的思想)までを保護する(特許法2条、実用新案法2条参照)のとは異なり、思想や感情あるいはそれを表現する手法や表現を生み出すアイデアが保護されることはなく、その結果、著作権法による保護の範囲が、見方によれば狭いものとなることがあることは事実であろう。しかし、それは、著作権法の趣旨から当然のことというべきである。」と説示するが、誤りである。けだし、特許権にはクレームがあり、均等論はあってもその適用には限界があるし、意匠権には類似の範囲はあってもそれ以上の保護はないことと比較すれば、両者の間に知的財産権の保護範囲の考え方に本質的な違いは認められないことになる。(19)

(15) 判時1726号162頁。牛木理一「キャラクター戦略と商品化権」170頁
(16) 牛木理一「連載漫画の原作とキャラクターの絵との関係」パテント52巻7号53頁(1999)。長塚真琴・北大法学論集50巻5号1247頁(2000)。堀江亜以子・別ジ著3版156頁(   )。三浦正広・岡山商大論叢38巻1号59頁(2002)。松村信夫・知財管理52巻8号285頁(2002)。
 (17) 地裁判決は判時1689号138頁。高裁判決は判時1745号128頁
(18) 公益性とは似て非なる「公有性」(パブリック・ドメン)に属する部分が著作物の中にも存在することを認識させた哲学者として、半田正夫教授はフィヒテの功績は大きいと言われ、「たしかに著作物が創作物であるとはいえ、いかなる著作者といえども完全なる無から有を創り出すことはできず、必ずやなんらかの形で素材(それは先人の文化的遺産の場合もあろうし、また自然の事物あるいは日常生起せる事件の場合もあろう)を利用しているはずであるから、この部分については公有と認めざるをえないであろう。」(半田正夫「著作権法概説」10版93頁)と述べられる。そして、「当初、フィヒテが外面的「形式」だけを保護すべきであると主張したのは、「形式」の中心にのみ著作者のいわゆる創作的な個性が現れていると考えたからにほかならない。とすれば、著作物の本質を論ずるにあたって重要なのは、「形式」か否かの区別の問題ではなく、創作的個性が現れているか否かの問題であろう。・・・・結局は著作物ごとに、著作者の個性が認められ、したがって著作権によって保護を受ける部分とは何か、また万人の自由利用が認められ公有の部分とは何か、を検討しなければならないであろう。このような著作物の本質的なとらえ方は、従来ともすれば見失いがちであったことがらの本質を再認識させた点で意義があるように思われる。」(半田前掲96頁)と述べられる。しかし、公有性と公益性とは別異の概念であり、創作された著作物の中に公有性が存在することは理解できても、高裁判決のいう公益性なるものは理解できない。
(19) 牛木理一「著作権の成立と保護範囲」知財管理51巻10号1547頁(2001)

4.複製・翻案

 「西瓜写真」事件において、東京高裁は、被告写真は原告写真からの依拠性を認めたが、「複製又は翻案」と判示したことは、その判断に曖昧さが残るといえる。
 著作権の保護対象は何であり、どこまで著作権の効力が及ぶのかについては、著作物の種類や創作性の程度などによって千差万別であるものの、その基本的な考え方は共通する。しかし、わが国裁判所においては、著作物の複製と翻案についての解釈は、必ずしも統一されていない。それは、あたかも意匠の類似の意味が侵害裁判所において一定していないことに似ている。
 しかしながら、意匠も広く美術の著作物の一種であると考えるならば、既に述べたように意匠の類似問題とは、著作物の複製又は翻案を論ずるときに使われる類似と共通性をもっていることになる。そして、登録意匠に類似する意匠に意匠権の効力が及ぶ(意23、26)と同様に、特定の著作物(作品)と類似する著作物(作品)に対して著作権の効力が及ぶ(著21、27)のであり、それが保護範囲となる。
 ただ前記したように、「著作物の類似」を、複製の範疇のものと解するか、翻案の範疇のものと解するかは、裁判例として必ずしも定まっているとはいえず、被告物件に対し原告著作物の複製か翻案かを詮索することなく、「又は」として同列に論じている。
 例えば、東京地裁昭和62年7月17日判の「コーポレーション・ペンギン」事件(20)においては、「コーポレーションペンギン及び原告人形と本件人形とは、いずれも類似すると認めるに足りず、したがって本件人形が本件絵画又は原告人形の複製物又は翻案物に該当」するものとは認められないと認定する。この裁判例は、著作権侵害訴訟においては、著作権(財産権)の侵害となるか否かが重要なのであって、著作権法の21条の適用事案か27条の適用事案かを区別する実益はないと考える著作権侵害の一元的基準を採る立場の事例である。(21)
 しかしながら、この実益論に対しては、原告が複製権侵害の判断が困難でない事例で複製権侵害を主張立証する場合は、「その判断は外面的なもので足りる」のに対し、翻案権侵害を主張立証する場合には、「その判断は外面的なものから、内面的、本質的なものにまで及ぶものとなる」から、法論理的には両者は「具体的な請求原因事実が異なる場合も多く、両者のそれぞれの判断基準を検討して、これらを定立する実益は実務上否定することができない。」(22) と考えるべきだろう。
 複製とは、第三者が他人の作品と同一又は類似の範囲にあるものをそのまま表現することである。したがって、第三者の作品には新たな創作性を感知できる表現形式は存在しないことから、その表現形式は他人の作品の表現形式が有する創作体に属するものということになる。
 これに対し翻案とは、第三者が他人の作品と同一又は類似の範囲にあるものを表現することではなく、他人の作品に別の表現形式を付加することによって他人の作品の創作体を超えて、全体として新たな創作性が感知できる表現形式が存在するものの、その表現形式は基本的に他人の作品が有する創作体を利用しているものである。したがって、第三者による他人の作品の利用には、基本的に他人の作品が改変されているとしても、他人の作品が有する創作体が改変されることはない。
 すると、第三者が他人の作品を変更、切除その他改変した場合、その作品全体に創作性の存在が認められなければ、他人の同一性保持権とともに複製権の侵害となり、創作性の存在が認められるとしても、他人の同一性保持権とともに翻案権の侵害となるだろう。(23)
 この複製と翻案との関係に似ているのが、意匠法における意匠の類似と利用との関係である。即ち、著作物の複製は意匠の類似に、著作物の翻案は意匠の利用に相通ずるのである。したがって、特に意匠の不完全利用の問題は、著作物の翻案の論理で考えるならば正解が出る場合もあるかも知れない。(24)
 著作権法には「類似」という用語は存在しないから、同一性又は実質的同一性の用語を使用することもあろうが、要は原著作物の有する創作性を保護し、著作権の効力の及ぶ保護範囲を説明するための概念といえるのである。
 
 (20) 知管別冊判例集昭62I182頁。牛木前掲キャラクター戦略329頁
(21) 橋本前掲33頁。橋本氏は、「複製権侵害と翻案権侵害とで訴訟物を異にするか否かという訴訟物の特定という観点からは、右の考え方を否定することはできないと解される。」とし、その(注14)においては、不法行為類型の侵害訴訟における訴訟物を構成する被侵害利益としては、原告の著作物を特定した上で、広義の著作権のうちの著作者人格権と著作財産権とに二分して特定すれば足りると説明される。
(22) 橋本前掲25頁。西田美昭「複製権の侵害の判断の基本的考え方」裁判
   実務大系27、131頁
(23) 脱稿後、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」事件の最高裁判決を覆すような判決が、東京高裁の「どこまでも行こう対記念樹」平成12年(ネ)1516号事件において、平成14年9月6日にあった。この高裁判決では、原告(控訴人)の原著作物(楽曲)の72%にあたるメロディーが被告(被控訴人)の著作物に含まれて一致するから、そこに原著作物の本質的特徴を直接感得でき、原著作物への依拠性を推認できると認定し、被告による原告の編曲権(翻案権)の侵害成立を認容した。原告は、地裁では複製権侵害を主張して敗訴したので、高裁では翻案権侵害の主張に切り換えた。こんご、この高裁判決に対する最高裁の判断が注目される。
(24) 名古屋地昭55(ワ)577号昭和59年3月26日判(無体裁集16巻1号199頁),名古屋高昭59(ネ)224号昭和60年4月24日判(無体裁集17巻1号183頁)は、分離可能な2つの機械部分から成る豆腐製造用豆乳ろ過装置は、外観上両部分が一体化し、両者が混然一体となって区別できない形状となっているから、登録意匠を利用したものとはいえないと認定した。しかし、不完全な利用状態にはなっていても、機械の全体が混然一体の状態となるものではない。
 
5.むすび
 
 著作権による保護対象の創作体を探ることは、著作物の複製か翻案かという著作権侵害の成立の有無に関係する問題を解明するカギが与えられることになる。前記した作品の「類似」について説示した裁判例も、結局は、保護対象となる創作体の把握とその実体が有する創作性の範囲に属するか否かを認定するときに、「類似」という概念が有効な判断基準になったものと思われる。
 このような判断は、正に意匠権侵害事件において行わねばならない意匠の類否判断と共通の基盤を有するものであるといえる。けだし、著作物も意匠も人間の精神的創作活動によって生み出される美的作品であり、その具体的表現形式の背後には、当然のごとく、一つの創作体が存在しているからである。
 この創作体とは、作品のもつアイディア(着想)とは違い、外面的表現形式が作出された一つの内面的表現形式といえるものであり、したがって、これ自体は類似の範囲を有するものである。類似の範囲に属すると判断できる具体的な表現形式は、同一の創作体に由来しているものといえる。そして、この創作体が当該著作物の保護対象となり、かつ著作権の保護範囲となる。
 すると、知的財産権の侵害事件を扱う裁判所においては、著作権の保護範囲の壁と特許権・意匠権の保護範囲の壁が、意識するとしないとにかかわらず、崩れつつあるように思われる。そのような考え方が妥当か否かは、伝統的な著作権法の本質を考える者にとっては危機感を覚えるかも知れないが、それがわが国裁判所の現実の姿になりつつあるのを見ると、最終的には最高裁判所が説得力のある答えを示すほかないだろう。
 最後に申し上げておきたいことは、本稿の最初の目的は、最後に著作物の類似概念を意匠の類似概念と対比して論ずることにあった。しかし、紙数の都合で意匠の類似概念に論及しこれと対比することは、断念せざるを得なかった。登録意匠の類似概念やその保護範囲については、筆者はこれまでに数多くの論文及び著書において論じているので、そちらの方に譲りたいが、主著の「意匠法の研究(四訂版)」(1994)の第2篇第8章や「判例意匠権侵害」(1993)の総論部分が、主としてこの問題を論じている。
 本質的に共通する要素をもつこの2つの作品の保護をめぐる類似の意味を考えることは、知的財産の保護の本質を考えることになる。そして、論理学上、「概念」とはいくつかの「属性」から成り立っているものであるから、美術の著作物や意匠における類似は、どのような属性(構成要素)から成り立っているものなのかを考える機会にもなる。おそらく両者は、共通の属性を有しているものであることがわかることになるだろう。
〔半田正夫先生古稀記念論集「著作権法と民法の現代的課題」65頁(2003/法学書院)から〕

 


〔牛木理一〕