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2018年5月1日



 
近 況 雑 感

1.今年の5月3日は、日本国憲法が施行された昭和23年(1948年)から70周年にあたるところ、愛知県の中学生13才の金子桃夏さんが、朝日新聞「声」に「戦争知る人へ 13才からのお願い」と題して、「戦争を体験したり、語り伝えたりしている人たちは、その経験を私たちに伝えてほしい。」そうすれば、「子供たちがちゃんと戦争を理解して国民投票すれば、70年以上守り続けてきた平和を、これからも継続していけるのではないかと思う。」とアピールしています。このアピールにこたえるように、長年展示会や講話会を実施しているのは、私の生まれ故郷の新潟県長岡市であり、そこには長岡戦災資料館(0258-36-3269)があり、時期になると市内の中学生を集めて、被爆経験者が昭和45年8月1日夜の長岡空襲の思い出を話してくれるのです。

 これは、米軍による空からの攻撃により戦災犠牲者を多数出した例ですが、沖縄では米軍による上陸作戦によって住民を殺傷し多数の犠牲者を出していますし、戦争終結の契機となったのは、広島と長崎への原爆投下であったのです。

 わが国が第二次世界大戦となる太平洋戦争を起こしたのは、昭和16年12月8日のハワイ真珠湾の米国艦隊への総攻撃であり、その時の連合艦隊司令長官は長岡市出身の山本五十六大将であったのです。山本は明治38年の日露戦争にも参戦し、手指を切損した負傷者でもあったのです。山本は昭和17年に太平洋艦隊の偵察のために向かった時に、米軍機によって発見され撃墜されたのです。

 

2.また不幸なお知らせであります。アニメ監督で有名な高畑勲さんが4月5日に肺がんで死去されました(82才)。東大仏文科卒というと、在学中に小説「飼育」を発表した大江健三郎さんの1年後輩でしょうか。

 卒業後すぐに東映動画に入社し、1968年には「太陽の王子 ホルスの大冒険」で映画監督デビューをしましたが、1985年には東映動画以来の同僚の宮崎駿さんとアニメ制作会社「スタジオジブリ」を設立し、1988年には野坂昭如原作の「火垂るの墓」を脚本・監督して、高い評価を受けたといわれています。私は「火垂るの墓」の劇場映画はすでに2回見ていますが、アニメはまだ見ていませんでした。しかし、たまたま4月1日(金)夜、出張で行っていた新潟市のホテルの部屋のTVで見ることができましたが、アニメは画像もさることながら、声優あってのものですね。アニメも映画も3才の節子が主役であるといってもよいでしょう。感動しました。

 私は高畑さんとは、発足時から会員である日本アニメメーション学会の最初の副会長(会長は大山正東大元教授)をされていましたので、毎年の大会時には何らかの講演をされていましたし、個人的には立ち話をしたこともありますが、実直で人柄の良さを感じていました。

 「火垂るの墓」は戦前の兵庫県西宮市などの街並みを正確に再現したうえで、空襲の惨禍とやせ衰えていく妹を描いたり、夙川の火垂るの飛び交う貯水池に面した防空壕の内外で生活する2人の姿はリアリズムの極みだ、と朝日新聞の「評伝」でも伝えています。高畑監督は宮崎監督と違い、絵は描かなかったが、目指す絵に到達するためにアニメーターらと粘り強いやり取りを繰り返し、要求するレベルは常に高かったと言われています。(朝日新聞2018年4月7日社会面 39頁)私自身、このアニメはあくまでも娯楽映画と理解していますから、喜怒哀楽があって当然であると思います。

              (朝日新聞2018年4月6日夕刊 1頁)

 

3.西宮市といえば、西原志満子さん(87才)が朝日新聞「声」欄に投稿されていました。「45年8月15日、正午に大切な放送があるというのでそれまでに帰ろうと、高等女学校3年生の私は防空頭巾を肩にかけ、空襲にあった友人を見舞いに兵庫県西宮市の夙川河口にある病院へ急ぎました。・・・・病院に急ぎ、そっとノックをして開けると小さいベッドが一つ。小さな女の子が横になっていました。その子は友人の妹で、友人は亡くなったことを母上から聞きました。『この子をおんぶして防空壕へ走った時、砲弾の破片が脇腹に当たって亡くなりました。妹は自分の片足がないことも、姉が亡くなったこともまだわかっていませんの。』・・・正午の玉音放送は姉と2人、直立不動で聞きましたが、まったく意味が理解できませんでした。」(朝日新聞「声」かたりつぐ戦争 2018年2月19日 10頁)

 

4.ところで、日本中の特に東日本では知られている越後銘酒「越乃寒梅」の商標を知らない方はいないでしょう。その酒造会社である石本酒造株式会社の3代目社長でその後会長となられた石本龍一さんが4月10日に逝去されました(79才)。私はその昔、父牛木一男からこの商標命名の謂れを聞いたことがあります。初代が亀田町北山で酒造工場を始めた時は、自宅の庭に井戸を掘り、そこから汲み上げた地下水を使っていたこと、その地下水が良好だったのか清酒の評判が良かったこと、そして清酒の商標は、最初は単に「寒梅」であったとのことです。

 ところが、昭和40年代のある日、石本酒造は埼玉県の酒造会社から、「寒梅」は当社の商標権だから使用を中止せよとの警告状を受けたので、特許庁に出向き審査官に相談したところ、清酒の登録商標として例えば「誉」があったが地名的な文字を付ければ類似せず区別できるから、登録できるとのアドバイスを受けたそうで、今日、使用されている「会津誉」や「越乃誉」などはそのような登録例であるようです。商標とは、商品や役務についての出所表示機能を有するマークですから、別の文字を付記することによって自他を明確に区別することができ、需要者が出所の混同を起こすことはない場合は、侵害にはならないといえるようです。

 

5.特許庁は千代田区霞が関3丁目4番3号にあるところ、地下鉄「日比谷線」の霞が関駅で下車して財務省と文科省の間の三年坂を上って左折すると霞が関ビル36階の前に到着するが、この霞ヶ関ビルの前を通り過ぎた右側角にあるのが特許庁舎です。

 その霞が関ビルは、わが国で最初の超高層ビルとして完成したのが1968年(昭和43年)4月であり、147m、地上36階でありましたが、今年で満50年を迎えることになったのです。すると、私が上京して事務所を構えたのも満50年ということになりますが、この間、一目散にかけ登って来たような気がしています。 

 私が新潟から出て来て東京で最初に事務所を構えたのは1968年5月であり、その場所は「港区赤坂1丁目11番35号」の3階建ての小ビルで、米大使館の横隣近くの榎坂にあり、特許庁へは歩いて5分位のところでした。しかし、現在この場所の「榎坂」は公園になっています。当時の特許庁は4階建ての大きなビルで、霞が関ビルとは新旧コントラストのある建造物でしたが、私は記念に撮影したその当時の写真を額縁に入れて保存し、当事務所に置いてあります。

              

6.今の時期になると、春の叙勲受章者が発表されますが、4月29日の新聞に掲載されていた中で、私がよく知っている人に、「旭日重光章」の山岸憲司元日弁連会長(新潟県見附市出身)と「端宝重光章」の滝沢孝臣元知財高裁判事(群馬県伊勢崎市出身)の2人がいますが、おめでとうございます。2人とも私と同学の後輩ですが、山岸先生には仕事を紹介していただいたことがあり、滝沢先生には高裁時代に勝訴の判決をいただいたことがあります。

 同学といえば高村正彦(元外相)さんと保岡興治(元法相)さんがおり、また意匠法改正審議時に衆議院商工委員会において特許庁長官に対する質問を依頼したことがある川端達夫(元衆院副議長)さんと大畠章宏(元経済産業相)さんは、いずれも「旭日大綬章」を受章されました。

 また、同学同期といえば、小島武司(元桐蔭横浜大学長)さんが、「端宝中綬章」を受章されました。

 

7.今月の「裁判例研究コーナー」では、次の3件について紹介します。

 

(1)登録意匠「箸の持ち方矯正具」無効審決取消請求事件:知財高裁平成30年

   2月26日(4部)判決<請求棄却>➡B2−24

(2)登録意匠「トレーニング機器」無効審決取消請求事件:知財高裁平成30年

   3月22日(3部)判決<請求棄却>➡B2−25

(3)特許出願「選挙等用チラシ」拒絶審決取消請求事件:知財高裁平成30年

   4月11日(4部)判決<請求棄却>➡I.1−13 別紙

 

 また、前回から掲載を始めた第1.5 特別論文「インダストリアルデザイン―その美と保護の研究―」の第2回分を今月号に発表しますので、お読み下さい。➡1.5−3,4

 

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